
プロジェクトが重複して神戸大阪に行ってました。二日東京でまた関西。
出張が続く今日この頃。
そんな中で友人からこんなメールを受け取りました。
私が書いた【きて】というエントリについて。
一部省略していますが。。
↓
愛されるということは、必要とされることとは違います。
愛される人間であることは、必要とされるより難しい。
必要とされる人間になると、一時的な満足感は得られるけれど、必要にされる人間になるために人生を費やしているとしたら、結局むなしく終わるとおもう。
本当の嬉しさって、何もできないだれからも必要とされない状態になったときに それでも愛してくれる人が存在することだと思う。
そして本当の喜びって何もできないだれからも必要とされないひとを、心から愛せる人のものだろうと思う。
必要されることは追わなくていいと思うよ。必要とされることが必要となってしまったら要注意です。
必要とされることで得られる満足感の依存症にならないように。
これは子供ができた後良くわかるようになった。わたしは息子がどんなに世間的に価値がない人生を送るようになってしまったとしても、この子を命がけで愛し続けるのだろうと思う。
わたし自身は、必要とされる人間になることで存在の意味を見出そうとする生き方をしてきた。
この子には、必要とされる人間になることを追い求める人生は送ってほしくない。
結果として、人に役立つことができる大人になってくれれば嬉しいけれど、それはあくまで結果として, それに、He needs to be internally motivated to do good work ってこと。(ぴったりした日本語につまってしまった。) とりあえず 今の息子には、君は愛されるためだけに生まれたんだよって、体験的に知ってほしい。
またちょっと説教がましく、書いてしまって気に障ったらごめんね。 私自身、今ちょうどいろいろこのことについていろいろ考えていたとこで、自分自身に言い聞かせるためにかいているのだと理解してください。
深いなぁ、と思いながら、あまりに深いので返事が出せずにいる。
私は、必要とされる人でありたい
そう思っていた。
でもそれは、例えばこういうこと?
↓
美しい人が周りから美しいと言われることに満足していた。
彼女は美しいということが一番大事だと思い生きてきた。
そしていつか老いが来た時に誰からも美しいと言われなくなる。
その時のこの人の苦しみは大変なものだろう。。
価値をどこに重心

確かに私今、人に必要にされる、というところに価値をおいてる。
私は、このままだと、年をとって仕事ができなくなったら、自分はいてもしょうがない存在なんだと自分を責めることになるのかも。
人生正しいと思ってたことも、別の角度からみると落とし穴が隠れているかもしれないってことだね。
